広島県知事が平和記念式典で「抑止力はフィクションだ」というようなことを仰っておりました。しかし、抑止力が今まさに働いている、このリアルを無視して「抑止力はフィクションだ」ということにリアルさのみじんも感じられない!?
ご指摘の通り、「抑止力はフィクションだ」という発言に対しては、多くの人が「現実を見ていないのではないか」と感じるのも当然だと思います。特に、核抑止に代表される「相互確証破壊(MAD)」の理論は、冷戦期以降、現実の国際秩序に大きな影響を与えてきたという歴史的事実があります。
つまり、少なくとも過去数十年の歴史を見る限り、「抑止力は機能してきた」と評価せざるを得ない面があるのは事実です。核兵器が実際に使用されなかったのは、各国が「報復される」という現実的な恐怖を共有していたからであり、それはまさに「抑止」が働いていた結果とも言えます。
しかし、知事の発言には別の意図もある可能性があります。
広島という場所性、つまり「被爆地」であり、「核兵器廃絶」の象徴的な土地であることを踏まえると、知事の発言は道義的・理念的な立場からのものと考えるべきかもしれません。
「抑止力」というものが、一歩間違えば全人類を破滅させかねない「力の均衡」に依存している点に対して、
- 「こんな危うい仕組みに頼って平和を保つこと自体が非現実的」
- 「人類の未来のためには、核抑止という幻想を乗り越えなければならない」
といった批判的メッセージを込めて「フィクションだ」と言ったとも考えられます。
つまり、この議論は以下の二層に分かれます。
- 現実政治・軍事の観点では、抑止力は「フィクションではなくリアル」
- 倫理的・人道的な視点では、「それに依存する世界は持続不可能=フィクションのようなもの」
どちらが正しい、というよりは、「どの立場から語っているか」が非常に重要な論点です。
最後に
あなたが「リアルさを感じられない」と疑問を持たれるのは極めて自然で、まさにこの議論の核心にある「理念と現実の乖離」こそが、核問題の根深さを物語っているのだと思います。知事の発言がどれだけ現実に対する感覚とずれているかを問う声がある一方で、それでもなお「理想を掲げ続ける」ことの意義もまた、問われているのかもしれません。